DATE  2003/09/07
LOCATION  沖縄:与那国
No.43 光と影

透明な海を照らす太陽の光と、
悲惨な歴史の影が共存する島、与那国。

一周約28km。
民宿で出会った人は当然のようにバイクを借り、
私は当然のようにチャリで一周すべく出発。
話が異常に長い、民宿の婆ちゃんは
日差しに気を付けろと言ってたが、
本当に危険。もはや痛いくらい。
そんな激痛光に耐えつつも島の東岬へ到着。
緑は緑らしく、海は海らしく、正にここは楽園。
石垣のユースで出会ったスキューバ好きの人と
昨日船に乗ったが、彼もどこか海面の下で
感動しているだろう。
もっとも地上は自然すぎて馬・牛のフンも
雨が降ったみたいに散乱しているのだが、、、

踵ならぬサドルを返して再び西岬へ。
途中、集落がありそこには膨大な墓がある、死の都。
気温が違うかのような凛。
他にも与那国には人減らしの歴史が点在する。
時間内に入れない者は明日を奪われる人舛田。
妊婦を無理やり飛ばした岩。
写真は撮らなかった。いや、撮れなかった。
どんな気持ちで同じ村の人を殺め、
どんな気持ちで同じ村の人に殺されたのか。
現代に生きる私には到底分からないが、
自分に出来る事は、
知る事、忘れない事、そして伝える事くらいだろうか。

さあ、島一周だ。
反時計回りに南側から出発。
軍艦岩。
自然でできた不思議な岩。
東岬。
色がたまらない。
東岬から見る海。
岬からでも海底が見える。
浅瀬が続く浜。
足を浸して一休み。
久部良漁港。「Dr.コトー診療所」の泉谷しげるの仕事場でもある。
 
夜の港。
明日の出航を待つフェリー。


DATE  2003/09/08
LOCATION  沖縄:与那国 → 沖縄:石垣
No.44 果てのお婆

さあ、横浜へ帰ろう。
新たな旅の準備の為に。
まずは週2便しかなく乗り遅れが許されない、
石垣行きの船が今日の朝、出航だが、
話が超人的に長い民宿の婆ちゃんに捕まり、
出航間際になってしまった。
でも親身になって話してくれる婆ちゃんは良い人。
挨拶をして別れ、5軒先の商店で飲み物を買い、
外を出るとまたまた超人婆ちゃん。
「ここ真っ直ぐ行って右に行くと港に出るから」
またもや5分くらい説明してくれた後に、
「いいかい、そのうち定職には就きなよ。
 そしたらまた旅すれば良いんだからね。」
涙溢れる思い。
旅をして仕事をしてまた旅に出る。
単純で明白な人生の輪廻。
単純に生きるのは楽しく、複雑に生きるのは面白い。
どっちを選ぶ?

10時。
船はエメラルドグリーンの港を滑るように旅立ち、
思い出したかのように進路を東へ変える。
なんとも頼りない小さな船。
方向が分からなくなったら、あの婆ちゃんに聞くと良い。
もっとも2、3時間は覚悟したほうが良いけどね。

与那国よさらば。
お婆も元気で。
再び石垣の港へ。
こんな晴天なのにこの後大雨。


DATE  2003/09/09
LOCATION  沖縄:石垣
No.45 第二の足

石垣島一周、約140Km。
ママチャリの距離ではないので、
唯一無二の旅の友に後ろめたさを感じつつ、
レンタルバイク屋に行き、
ママチャリから原チャリにアップグレード。
しかし、バイクを運転したことの無い私が
はたして無事に一周できるのか?

まずは空港の近くで練習。
ぐるぐる、ぐるぐる、、、
その様は初めて自転車に乗れた子供の如し。
やがて大海原、公道デビューへと続く。
つい歩道を走りたくなる気持ちを抑え、
愚直に速度30kmを死守し石垣を駆ける。

、、、楽しすぎる。
風の中にいるみたいだ。
にしても、こんなのあり?
どんな坂もひねるだけ。
必死で登った展望台も、あ、着いた。
楽すぎて早すぎてズルすぎる、、、

さあ石垣一周に向けて出発だ。
 
海に向かって走る。
今日は坂でもなんでもこい。
石垣最北端、平久保岬。
灯台の白が良いコントラスト。
南国名物、局地的豪雨。
奥の白い霧の所だけ雨。
一面のサトウキビ畑。
他にも嫌ってほど沢山ある。
透明度抜群の川平湾。
遠くからでも綺麗。
 
七色に変化すると言われている川平湾。
もはや絵みたいだ、、、


DATE  2003/09/10
LOCATION  沖縄:石垣
No.46 封鎖

朝、携帯の留守電のメッセージで一日が始まった。
「琉球海運です。11日の那覇行きは台風の影響で欠航します。
 よろしくお願いします。プツ、、、」
よろしくって、買った往復券は、、、
電話してみると、那覇でしか払い戻しできないとの事。
また次の便は来週の18日しか無いらしい。
ようするに、石垣島に閉じ込められた、、、

とりあえず11日に泊まる所を探して電話すると、
「申し訳ありません満室です。
 台風で島から出れない人が沢山いまして、、、」
頭がようやく覚めてくると、事の重大さに気付く。
次の便が18日と言うことは、あと7日もここに
居なくてはならなく、出費が痛すぎる。
飛行機で帰ろうにも5万! チャリはどうなる。
泊まる所も島なので数は限られている。
観光なんてしてられない。時間との勝負。
かくして争奪戦が始まる。

武器は石垣ガイドブック、JALカード、携帯電話、ノートPC。
日本刀とバズーカみたいなバラバラな武器達。
まずは石垣が暴風域に入る明日の
泊まる所を決めておかなくては、落ち着かない。
ガイドブックに書かれている宿を片っ端から電話するが、
ことごとく満室。宿の人は歓喜の声。
みんな見るガイドブックでは駄目だ。
やはり私の最大の武器、ノートPC。
持って来ている人はそういないだろう。
ネットで探すと、あやしい宿まで引っ掛かる。
3000円のビジネスホテル、、、
恐え、、、でも電話。空いてるって。
怖え、、、でも予約。
明日は眠れるか分からないが、かくして宿は決まった。

船は諦め飛行機で帰るべく石垣−羽田の空席検索。
満席。
しかし!コツコツ貯めたマイルという飛び道具がある。
15000マイルで日本全国往復券。名前で騙されそうだが、
往復券は別に2空港を往復しなくても良いのだ。
石垣−那覇、那覇−羽田のルートでマイル席を確保し、
次にチャリを送れるか空港の手荷物運送係に電話。
「出来るよ。」
と沖縄系おっちゃんの声。ママチャリだと言ったら、
「出来るよ。」
どこに持って行ったら良いか聞いたら、
「空港。」
んなことはわかってるっつうの、と心で叫び、
なんとかママチャリも送れると確認を得た。
それでもマイル受付期間の影響で
まだ3日も荒れ狂い始めた石垣に
居なくてはならないが、、、

 
あの元気いっぱいな空は消えうせ、
徐々に闇が広がる。


DATE  2003/09/11
LOCATION  沖縄:石垣
No.47 嵐襲来

バキバキバキバキ!
雨の音ってこんなだっけ?
刺さりそうな雨の速度、暴力的な風の圧。
とても立っていられない。
ましてやママチャリで走ろうなんて、
沖縄の台風をなめているとしか思えない。
そんな、なめくさったママチャリダーが一人、
昨日泊まったホテルのロビーでたたずんでいた。

沖縄に上陸した過去30年の中で、
一番勢力が強い台風だとテレビが言っていた。
なるほど、台風で恐怖を感じたのは初めて。
木々は倒され、人の気配が無く、外は闇の世界。
遠くでは不気味な重低音。

このホテルにも沢山のキャンセルが
入っていると分かり、結局もう一泊することに。
あの青空が早く帰ってくる事を祈って。

嵐襲来中。
雲が低い。
風がとにかく凄まじい勢い。
窓を開けたら大変なことになった、、


DATE  2003/09/12
LOCATION  沖縄:石垣 → 沖縄:黒島 → 沖縄:石垣
No.48 嵐過ぎ去りし

黒島。
人よりも牛の数が多いと言われ、
ハート型の形をした小さな島、通称ハートランド。

嵐は去ったが太陽まで消し去る
厚い雲が健在の今日の天気。
旅行中に引き篭もるという屈辱を晴らすため、
天気悪いが、いざ黒島へ。
4時間あれば全部見て回れるだろうと思いきや、
2時間で終わってしまい、結局フェリー乗り場で
再引き篭もりという、施設もお手上げものの
醜態をさらしてしまった、、、

今日の宿舎はいよいよ3000円のホテル。
覚悟して行くと、、、古いけど普通。
待て待て、何か他にあるはず。
安心しかけた気持ちを奮い立たし、
フロントのお爺ちゃんに話しかけると、
「あぁ〜!」
ええ、、、予約した者だと伝えると、
「あぁ〜! ああ、、どなた?」
まず叫んでから、お爺ちゃんは語るらしい。
「もう入っていいけど、部屋の掃除まだだから駄目ね。」
どっちやねんと思いつつ、何時ごろ終わるのか聞いたら、
「あぁ〜! タクシーで来たんか。」
もうだめだ、、、

雲は厚いがハートランドへ出発。

黒島の町並み。
家は石垣で囲まれている。
とにかく良く会う牛。
人が恋しい、、、
灯台へはジャングルのような道を進む。
秘境。
黒島最南端の黒島燈台。
秘境の中なので誰もいない、、、
黒島の道は、道100選。 島を形とった記念碑。 東京オリンピックのロゴを作った人がデザインしたそうです。
 
早く回ってしまい時間を持て余す、、、
船よ早く来い。


DATE  2003/09/13
LOCATION  沖縄:石垣 → 沖縄:波照間島 → 沖縄:石垣
No.49 今も昔

波照間島。
果てのうるま(珊瑚)から名づけられ、
人が行ける日本最南端の島。

空が帰ってきた。
最後のイベント、最南端へは晴天の中、
好スタートかに思えた。が、
船の揺れが半端無く無重力を感じること数回。
さらに外の席に座ったため、水しぶきが降り止まない。
もう、降ろして下さい、、、

波照間島は懐かしい道、街、人を感じる。
全てが昔ながらの空間を感じるためには
こんな所まで来なくてはならないとは。
あくびが出るくらい心地よい世界は、
常に果てにあった。

石垣に戻りホテルの近くの食堂に弊店間際に入店。
二階は家族の家になっているらしく、
そこの子供3人が、お客は私だけの一階で、
ガキエネルギーを爆発させていた。
台風3個の中、机をぶつけられながらも
ご飯を食べていると、
沈黙を保っていたお婆ちゃんに
三八式歩兵銃のスイッチが入る。
「静かにしなさい!!お客さんいるんだよ!!」
机をバンバン叩きながら、
「だいだいタカトは、、、!!」
と、お婆ちゃんが一番騒がしかったが、
こういう家族の一場面を見ながらの
ゴーヤチャンプルもまた格別。

もはや常連になってきた石垣港。
今日は「フェリーはてるま」だ。
波照間の町の広場。
祭りなどはここでやるのかな。
さあ毎島恒例、一周ツアー。
波照間は10kmちょっと。
風車「エネルコン」
島の1/5の電力を叩き出す。
ンメェェェー!
ヤギって結構、声大きい。
最南端への道。
もうすぐだ。
日本最南端は崖っぷちが、
広がる荒野であった。
ここは本土から来た学生が全国から集めた石で作った牌がある。我が故郷も。
波照間空港。
とっても小さな空港。
港手前の祖平花道。
昔、祖平という船頭が遭難し、中国まで漂流した。そこで出会った女性から風水図と航海図を渡され「七曲の道を作りなさい」と助言されたのでこの道を作った所、波照間航路は以後安全になったという話。


DATE  2003/09/14
LOCATION  沖縄:石垣 → 沖縄:那覇
No.50 先人の声

大都会、那覇。
波照間島から来た者にとっては、
そこは異次元の光景として目に突き刺さる。
東京の生活に戻れるか不安を残しながらも、
相棒と共に目指すは平和祈念公園。

偽善の気持ちは毛頭ないが、
その土地の歴史や背景を知っておくと、
那覇にあるマクドナルドも深みを増すって事。
自分に出来る事は、もう知る事でしかないから。

、、、戦時日記を見て言葉が出なくなった私を
乗せたチャリは励ますように首里城へ。
しかし、日本と中国が混在したデザインと
巨大な城壁の迫力にまたも言葉失う。
凄いね。
島津や米国と戦った偉大さ、
ペリーや各国首脳を迎い入れた寛容さを
兼ね備えた建物は、
これからも沖縄の町を見守り続けるだろう。

那覇に向けて出発だ。

結局、8泊もした石垣島。
お世話になりました。
那覇空港。
那覇もやっぱり激暑。
この町で綱引き大会があるらしい。
皆、楽しそう。
ひめゆりの塔。女学生で編成された看護隊・ひめゆり学徒隊が、最後まで看護活動を続けたが脱出直前にガス弾をうけ地獄へと化した壕。200人の名。
平和祈念公園の式典広場。
遠くで子供が遊んでいた。
平和の火。これを中心に平和の波が広がるかのような公園の配置にしたそうです。
首里城の正殿。500年続いた琉球王国の心臓。
北に位置する久慶門。
女性が通る門だったそうです。
沖縄人が待ち望んだモノレール「ゆいレール」。でもタクシー運ちゃんには痛い。
沖縄県立武道館。もはやガンダム。
設計者のイメージは龍。
夜の那覇泊港。
最後の夜を彩る。


DATE  2003/09/15
LOCATION  沖縄:那覇 → 神奈川:横浜
No.51 生還

51日前も、ちょうどこんな天気だった気がする。
晴天の中、北へ飛び出した坊主は、
気付けば沖縄で、黒く焼けた指で
髪を掴めるようになっていた。
思い残す事は何も無い。
次へ進むために那覇空港へ走る。
北の果て、西の果て、南の果て。
地の旅、海の旅、そして空の旅へ。

都会の極、東京に舞い降りた乗客達は、
手荷物受け取り場で荷物を待つ。
ママチャリを待つ者は一人しかいないだろう。
その一人はチャリを受け取った時、
自分の置かれた状況に戸惑う。
3連休最後の昼の羽田空港ロビー。
人の海の中をママチャリ持って出なくてはならない。
ツチノコを見るかのような視線が一つに集まる。
しかしこんな時、恥ずかしがっては思うツボ。
いつも以上に胸張って歩けばそれで良い。
え? 空港にママチャリなんて普通じゃん。
くらいの勢いで、、、

沖縄の日差しよりも強い、視差しを全身に浴びた後、
高速道路っぽい所を死ぬ気で駆け抜ける。
やがて看板に蒲田、川崎、東神奈川などの
懐かしい名前が並び、帰って来た事を実感する。
これでもう、
東風平町が「こちんだ町」で
皆野宿丘が「みなぬすくもり」で
真乙姥井戸が「まいつばーかー」だなんて、
読み方に悩まされる事も無いだろう、、、
最後の力をペダルへ、最後のハンドルは横浜へ、
最後のブレーキは家の前で。


、、、着いた。いや、着けた、、、
達成感よりも疲労感に満たされ、
部屋に入るなり、目の前にベッドが迫って来るのが、
今日最後の映像だった。

羽田空港には場違いなママチャリ。
命からがらに外へ。
チャリ走って良いのか?
といっても走るしかない。
蒲田へ抜ける長いトンネル。風圧が凄く、歩道が無ければ塵になっていた。
トンネルの中は空気が異常に悪い。
希望の光が見えた瞬間。
初日も越えた多摩川。
ということは、、、
我が故郷、神奈川県へ。
帰ってきた、、、
 
横浜の街並み。地図を見なくても良いのはなんとも言えぬ安心感。


DATE  2003/09/16
LOCATION  神奈川:横浜
No.52 生ける走りを

決して譲れないものが一つあった。
婦人用軽快車・ママチャリ。
乗り降りが容易なフレーム、低いサドルに高いハンドル、
スカートが絡まぬチェーンケース、後輪ドレスガード、
買い物を収容する前カゴ。
ママさんには嬉しいオプション揃い踏みだが、
旅するに者には、どれ一つとして意味を成さない。
皆にMTBなどの自転車を進められたが、
私は手軽さが欲しかった。
ちょっとコンビニへ行く感覚が。

振り返れば、随分遠くのコンビニまで行ったもんだ。
子供が初めて自転車乗れると、
止めなければ、どこまでも行ってしまうらしい。
だって、見たことの無い世界が待っているから、
曲がり角の先には何があるか知りたいから、
前へ進む事が楽しくて仕方がないから。

流れ行く新緑。
優しく触れる風。
耳を突く蝉の響き。
湿った森の香り。
喉を潤す瓜の甘さ。

やがて、枯れた茶色を掴む長袖。
硬い空気と張り詰めた霜。かたくなな半ズボンの友人。
溶けゆく雪のカケラと風に舞う桃の色。
衣替えの緊張と光輝く紫陽花、道路に咲いた陽炎。

巡る季節。連なる数字。
戻らぬ葉。薄れゆく彩。朽ち果てる朱。
置き忘れた記憶よ。
懐かしき五感よ。
希望に満ちたあの道を、
さあ、走らないか?

私が目指した果ては、本当の果てではない。
北にはロシアがあり、
西にはヨーロッパがあり、
東にはアメリカがあり、
目指した先には世界があり、
未だ見ぬ巨大な大地がある。
次に目指す新たな大地へ発つ前に、
今は、死ぬように、、眠りたい、、、



The Other Side - EAST -  ............End.








-------------> To the next stage!

 
走行距離:1551km、移動距離:5750kmの我がママチャリよ、本当にお疲れ様です。